精神疾患についてゆる〜く学ぶ。

精神保健福祉士を目指している男のブログ。

 

日本国憲法の基本原理 個人の尊重 意義

基本的人権 社会権の意義

統治機構の課題 国会 内閣 裁判所について。

地方統治 住民自治・団体自治について

民法の基本原理 民法の全体像について学びます

総則 民法の意思表示を中心に学びます

物権 民法の物事の種類

債権

成年後見制度の概要

成年後見制度の現状と課題

更生保護制度

保護観察制度

保護観察制度の現状と課題

医療観察制度

医療観察制度の現状と課題

 

 

 

当該科目の内容理解が一番重要

論述文章も重要

法の制度趣旨

意義 現実との関連を自分と結び付ける視点も重要。

 

日本国憲法の基本原理 13条個人の尊重 個人の存在価値とは何か、個人の差異はなぜ必要か

 

国民主権、平和主義、基本的人権の三大原理である。

国民主権は国民が国を動かすということ。決定の権限を持つ。

昔は天皇であったが現在は国民である。

1945年以降確立された原則であり、天皇は現在「象徴」としての立場である。

 

平和主義 この原則は戦争の反省から生まれた、とされている。

日本国憲法第9条による、戦争や武力行使を永久に放棄することを誓っている。

戦争はしない。

 

基本的人権の尊重。元来、生まれながら持っている人間の権利を約束する考えである。

憲法で決められたことであり、にほんにおいて基本的人権の迫害は許されない。

 

国の決定は国民が決める、戦争はしない、基本的人権を尊重する。

この三つが、日本国憲法の大原則である。

 

日本国憲法第13条 

全ての国民は個人として尊重される

公共の福祉を犯さない程度に尊重されるよ。

 

 

基本的人 社会権の制度

自由権

平等権

社会権

参政権

請求権

新しい人権

 

 

社会権とは人間が人間らしく生きるために必要な権利

 

 

統治機構 国会 内閣 裁判所の三権分立 立法 行政 司法の各機関の相互関係を理解する。

 

地方自治 

地方自治ってなんだ

 

国(中央) 立法(議会国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)

 

地方

 

中央省庁から独立して政治を行う

 

地方自治は民主主義の学校

 

住民自治と団体自治

 

 

地方自治

普通地方自治

特別地方公共団体

精霊指定都市

中枢都市

 

 

民法の基本原理

 

 

権利能力の平等

私的自治の原則

所有権絶対の原則

過失責任主義

 

物権 債権 親族 相続 相互関係

 

 

民法

 

 

総則 民法の意思表示 心留保 

 

 

日本国憲法 国民主導 平和主義(戦争しない) 基本的人権の保障

三大原理。

 

 

 

1 日本国憲法の制度趣旨について説明できる

 

三つの原理

個人の尊厳の理念があるとする学説がある。

 

 

5000文字 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 成年後見制度について説明できる

知的障害や精神障害認知症等で判断力が低下した個人が契約や手続きを行う際、

地域で本人(判断力が低下している本人)を理解し手続きを進める制度。

手続きは主に財産管理(不動産や貯金管理、遺産分割協議、相続手続き)や身上保護(介護、福祉サービスの利用契約等)である。

この制度が作られた背景として不利益な契約であることを認識できないまま契約を結び、悪徳な商法の被害にあわないようにするためです。意思決定支援である。

法律と地域を活用し、本人の意思を尊重させる。成年後見制度である。

認知症で何度も同じものを買ってしまう、知的障害で入所すべきかわからない。

悪徳業者からの契約を取り消しにできる。後見制度を使うとね

市町村の地域包括支援センター社会福祉協議会成年後見制度の専用窓口にて必要な書類と成年後見人になってくれる人を相談できる。

意思決定力が個人の不備関係なく下がってしまう個人に向けたサービスであり、

間違いなく役立っている福祉サービスだ。

 

3 民法の全体像について説明できる

 

民法は個人間の取引、個人の権利義務、人の身分の三点に重きを置いた法律である。

刑法よりも軽い印象があった。個人的には。

全ての私法の基礎であり、法律を学ぶにはとても重要。

民法は全1050条あり、とてもボリューミぃ。

民法は総則、物権、債券、親族、相続の5編で構成されている。

総則はすべての民法を通じて共通する規定である。

1章は総則

二章は人、1権利能力すべての人、法人には権利能力がある。権利を得たり義務を負ったり2意思能力 自分の行為の結果を予測判断できる能力。幼児や泥酔者には子の意思能力がないとされる3行為能力 契約を単独で結ぶことができる能力未成年や後見人は行為能力はない4住所5不在者、失踪宣告6同時死亡推定

 

権利と意思と行為

 

三章は法人

四章は物

不動産土地及び定着物

動産

主物

従物

刀と鞘、家と畳

天然果実 木から摂れる果実、牛から摂れるミルク。必ずしも果実とは限らない。

法廷果実 家賃や利息

 

五章 法律行為

総則

意思表示

代理

無効及び取り消し

条件付及び期限

 

六章

 

七章

 

 

民法

総則

物権 モノに対する権利。

債権 人や行為に対し支給する権利、取引

親族 家族内ルール

相続

 

4 法の解釈について説明することができる

 

一般的、抽象的に書かれた法を具体的に明らかにし適用すること。

その方を定められた背景、意義を理解してから初めて法が生きるのだ。

解釈の仕方には数ある。

 

文章解釈 条文そのままに意味をとらえる解釈

論語解釈 法制定の沿革、意義、目的を重要視する解釈。六つに分かれる。であるため、法の解釈は大きく分けて二つである。

反対解釈 法に書かれた物、に限って適用し、描かれていないことに関しては類似していたとしても適用しない解釈方法。未成年はダメです、と書かれていた場合、成年なら大丈夫だよねと解釈する。

類推解釈 類似する事項についても法を適用する考え。車も馬も通行止めて書かれていた場合、ロバもだめだよねとするか解釈

勿論解釈 法に書かれずとも類似する事項は同様に適用する解釈。

縮小解釈 

拡大(拡張)解釈 縮小解釈と逆。

変更(補正)解釈 法と表現が違っていたとしても、原理を尊重し、文言を変更してとらえる解釈

 

 

 

5 判例を挙げて基本的人権について説明できる

 

人が生まれながらもっている権利。保障しない国家も存在するが、日本は憲法にて保障している。

赤ん坊、成年、老人、妊婦、

性別、職業、関係なく持っている権利である。

基本的人権自由権、平等権、社会権参政権に分かれます。請求権、新しい人権。

平等権 誰もが等しく平等に生きる権利

自由権 自由を保障する権利 精神の自由、生命、身体の自由、経済活動の自由

社会権 生存権生活する権利。生活保護はこの権利を侵害しないためにある。教育の権利、勤労の権利、労働三権

参政権 政治に参加できる権利

請求権 人権が侵害されたとき救済を保障する権利

新しい人権 環境権、知る権利、プライバシーの権利、自己決定権

 

平等だよ

自由だよ

この社会で生きてね

政治に参加できるよ

人権を保障するよ

他もろもろ。

 

 

民法は何条ぐらいある?

1050

 

 

 

 

 

1 日本国憲法の制度趣旨について説明できる

2 成年後見制度について説明できる

3 民法の全体像について説明できる

4 法の解釈について説明することができる

5 判例を挙げて基本的人権について説明できる

 

 

日本国憲法の制度趣旨について説明せよ。 1000文字

 

日本国憲法は三つの原理からなる。国民主権、平和主義、基本的人権の保障の三つである。

国民主権とは主権が国民にあるということである。国民が政治権力の責任主体であり、民主主義の土台となる思想である。別名主権在民人民主権も呼ばれる。以前の天皇制からの大きな変革である。現在の天皇は象徴的存在である。国民が中心となって政治を動かす体制である。もう一つの部分の戦争の放棄からも繋がりますが、天皇という存在は神様であり、絶対という価値観は、軍国主義的価値観に近く悲惨な戦争を招く可能性が高いからである。天皇制からなる戦争の可能性を危惧し、国民主権のものになったと考えられます。戦争自体、今現在起きていないため、日本国憲法の草案を制作したGHQの想定内といえる。

平和主義は日本国憲法第9条に記されている。武力行使の手段を永久に放棄、戦力を保持しないことを表明している。正確には国際紛争を解決する手段ではないとしている。反対解釈すると自衛戦争・制裁戦争までは放棄されていない解釈がある。したがって日本には自衛隊が配備されており、憲法第9条に反しているという考えもある。これは法の解釈による。自衛権によるものであり、急迫不正の侵略や侵害を排除するための手段であり必要不可欠といえる。自衛権には大きく二つあり、個人的自衛権集団的自衛権である。戦力を保持しないという文から違憲の解釈を持つ者も居る。

基本的人権の保障は、国民の基本権が権力等によって不当に制約されてはならないということである。

この三点から、日本国憲法は民主主義国家の土台作りと考えられる。

 

成年後見制度とは何か述べよ。

判断力が低下した個人を地域が包括的にサポートし、契約や手続きを手伝う制度である。判断力が低下した個人というのは、認知症を患った者、精神障害者知的障害者等である。一人で決めることが難しい個人が適応されるサービスである。主に財産管理や施設入所時の契約、身上保護、相続手続きなどなどである。自分に不利益になる契約であることを理解できないまま契約を結び、悪徳商法の被害にあう事を救視でも失くそうとする取り組みである。一人で決める不安がある個人を法的に保護し、当人の意思を尊重し支援を行う。これを意思決定支援と呼ぶ。例えば知的障害があり、家に不必要なものを何度も何度も購入してしまい、自身での売買契約に不安を覚える場合などに適応できる制度だ。市町村や民間団体等への相談、手続と必要な書類と成年後見人と一緒に相談することで成年後見制度を利用することができる。

 

民法の全体像を説明せよ

 

民法は私人や法人等、人と人の間にできる権利や義務に関連した規定の法律である。

総則、物権法、債券総論、契約法、家族法の5つに分かれている。総則は民法全体に共通する規定の全てが書いてある。物権法、債券総論、契約法、家族法、すべてに通ずるため民法の中でも特に重要である。物権法は不動産や動産などの規定である。債券は行為対して請求する権利である。契約法は契約に関する。家族法は家族に関する法的ルールである。

 

法の解釈とは

 

法律をどう解釈するかである。法の文をそのままの意味で読み取ることと、様々な視点で

汲み取る二種類にわけられる。

 

 

 

判例を上げて基本的人権を説明する。

 

 

基本的人権

 

                                                                          

 

 

日本国憲法

 

成年後見制度について説明してください

民法の全体像を説明してください

法の解釈について説明してください

判例を挙げて基本的人権について説明してください

精神保健

 

精神保健とは。

人々の精神ないし心に対して健康状態の促進を目的とする学問や活動のことを指す。

精神は身体と相関関係上にあるため健康保持のためには欠かせない学問であると言える。

法律上の存在価値は、国民の精神健康の保持、向上のためである。1875年に癲狂院という日本初の精神病院が設立された。癲狂院の癲は現代のてんかんに該当し、狂は異常行動を主とする精神疾患を指した。癲狂は精神疾患等全般を指した総称であった。

それから1950年に精神衛生法が制定される。公衆衛生の向上促進を国の責務とした日本国憲法が成立したのである。同時代に私宅監置が禁止されたのだが、1984年宇都宮病院事件が起こる。宇都宮病院事件は入院中の患者が看護職員によって暴行死した事件である。この事件をきっかけに精神障害者の人権問題が課題となった。この事件も氷山の一角であるとした見解も多々あり、日本の精神医療の在り方社会復帰施策が見直された。それから1987年に精神保健法が成立し、精神障害者の人権擁護ないし社会復帰の促進が謳われ他、様々な精神保健の内容が追加された。そして様々な改正や改定が行われ、現在では2014年の精神保健福祉法改正が最後である。現代で確立されている精神障害者の権利も何十年もの時間をかけて獲得したということがわかる。だが、入院中の精神障害者に非人道的な行いをする刑事事件は少なからず存在するため、この問題に対応した法律の改正が必要と考える。精神疾患の発病原因は個人要因、環境要因、ストレスなどの様々が考えられるが、着目すべきは「誰にでも起こりうる病気である」ということだ。知的障害は先天性の疾患だが、精神疾患は怪我をする、風邪をひく、程度の身近な病気であるということは国民の四人に一人以上が精神疾患を経験しているというデータからも明らかである。したがって国民の生活において精神保健の重要性は高いと解釈できるが、学校等の公共施設からの呼びかけは少なく感じる。精神疾患も一種の病気であるのならば。予防ができると考えられる。精神疾患を予防するにはどうすればよいのか。精神疾患の多種多様性は大変逞しく、一つの予防法で発病の解決、リスクの軽減は難しい。が、それを踏まえたうえで重要なのはやはり『ストレス』であると言える。一次予防、二次予防、

できることといえば『相手を認知し、笑顔を向ける』ぐらいだろうか。

 

自殺は正しいことでも間違ったことでもないと思う。

まぁ、様々な状況下で判断は変わるが。

 

俺にしかできないわけではない。

むしろ俺みたいな変に気を入れた素人の行動が、状況を悪化させる可能性だってある。

 

今生きるこの世界を好きにならなくても、まぁいいけど

あなたが居てくれてよかった、のあなたになりたいんだよな。

 

ただそれだけなのかもしれない。

死にたい時は死ぬしかないのか。

たまには、世の為人のためにもならない、何でもないことをしても良いかもしれない。

そもそも平常運転時に自身の周りをより良くしているかどうかは疑問だが。

こういう自己嫌悪も一つ。

 

何となくもう死にたくなるのも、人間らしいのかなあと、

消えてしまいたいのも、いや、もういいか。

 

自分も含めたすべてが何となく重くまとわりついてうざったく感じるんだよな。

その全てを取っ払う方法が死ぬこと。いや、そんなことないんだろうけど。

 

この感情も明日起きたら無くなると思うと虚しい。この鬱屈した小さな絶望感もちっぽけなもんなんだと踏み潰されてる気分になる。

死にたいと思っても、生きたいと思っても、案外特段変わらないのかもしれない。

 

だけど、素直になれたかも。

 

あの人も何となく死んだのかなあ

なんか自分が勝手に感情的なってるだけで、あの人は死にたいと思ったから死んだ。ただそれだけなのかもしれない。ただそれだけ。

 

何なら価値もないな。全て忘れた。

 

どうせ振り回されて、うぜえな。

こんな感情に纏わり付かせて、鼻で笑ってんだろうな。こういう設計にした神を憎んでるよ。

 

なんかもうどうでもいいや。

『夜と霧』虐殺から学ぶ希望の見出し方。

夜と霧という書籍はご存じだろうか。

 

ナチスドイツから迫害されたユダヤ人であるヴィクトールEフランクル氏の強制収容所内での苦悩と絶望と愛と希望の物語である。

この物語は悲惨の二文字では足らない程に苦しみに満ち溢れた内容である。

前提として理解してもらいたいのは『実話』であるということ。

ユダヤ人というだけで、髪を剃られ、財産を奪われ、人権を無視し、家畜の様に扱い、無慈悲に死んだ者を煙突の黒い煙へと昇華させたこと全てが実話なのである。文字からはとても読み取れない苦痛を被収容者は味わったことだろう。それは著者であり収容も経験したフランクル本人も書籍内で述べている。アウシュヴィッツ強制収容所、本作の舞台であり、この世にあってはならない地獄を体現したような場所である。この場所で何万人ものユダヤ人が強制労働ないし奴隷のように扱われ、死んでいった。死体は炉の中で焼かれ灰と化した

もはや地獄のほうが生ぬるいのではないか、過ごしやすいのではないか。実際に当時のアウシュヴィッツでは高圧の電流が流れる有刺鉄線に向かって走り命を投げる者も珍しくなかったようだ。そんな壮絶な被収容者の監獄内での生活

死にゆく者の心理状態を描く『夜と霧』だが、いかにアウシュヴィッツが残虐性に帯びた施設であったということを記した体験談ではないということ。そういった体験談は著者以外に沢山の人物が書き連ねてきた。この作品は生き方を問うた作品なのである。著者フランクル氏は精神科医であったのだ。精神科医の視点で監獄内の人間の心理、自身の心理状態をも観測対象とし、起こる出来事、そこからの二次的影響をも加味した全てを自分の内なるものにしようとした。そしてその過程を描かれたのが『夜と霧』なのである。勿論、生半可な精神状態で強制収容施設で起こる物事に対し心理学的視点で見つめる事はできない。本書の表紙には119104の筋の羅列がある。フランクル氏がアウシュヴィッツ内で呼ばれた通称である。常に死んだ方がマシな状況下が発生し続ける。過酷な精神戦は二年半続く、フランクル氏はどう生き延びたのだろうか。現代では自殺者が増えている。それはけしてフランクル氏が監獄内で受けた薄い水のようなスープ栄養源とし長時間労働(もちろん、それだけだはないが割愛)をしたことが原因ではないだろう。様々な要因が右往左往に蠢き希死念慮に苛まれた者の精神状態のように絡んだ結果が生む十人十色の疾患なのだが、その課題の本質は同じなのではないか。夜と霧は本質を問うている。なぜ生きねばならないのか。人生にはどういった価値があるのか。苦痛や希望を絶やす種に水を与えない様は自殺への着目を逸らす。

それでも人生にイエスと言おう。

けして、あなたよりも苦しみ抜いた人物が過去に実在したのだ、したがって今貴方の屈辱、苦痛、絶望、劣等、怒り等のネガティブな感情は取るに足らないのだ、とする作品ではない。天から糸は垂らされずただ現実に嘆き蔓延る魑魅魍魎となるかは人生や現実ないし環境が決めるのでなく自身が。

生に関心をなくした人々。

なんとなく死んでも良い、と思う人がいる。

自分の出会ったその方は生きることに興味がないようだった。

生への執着も、死への恐怖も持っていないと述べていた。

死んでも良いというのは、自分自身の人生に興味がないということなのか。よく、高齢の方で「もう死んでも良い」と語る方は見かける。病気で苦しんでいる等の例を除くとその大体は満足に満ち溢れた表情で述べると思う。自身の歩んできた人生に悔いはないからであろう。規律を守り、自身と自身の大切な者を守るべく酸いも甘いも噛み分け、身を粉にして努力した者が養える価値観である。自分はそう思っていた。

死んでも良いと語ったその相手は高齢ではない。実年齢は詳しく聞いていないがおそらく三十代前半で生産年齢人口に十分入る世代である。日本という世界的にみても平和な

国で暮らしながらもどういった経緯でその価値観は形成されるのだろうか。平和といっても社会問題や個人的な部分で、生きずらさを感じる人々がいるのは確かである。

だが自分は、特段明確な理由ありきでの発言ではないと感じた。

なんとなく死にたいのではないか。なんとなく生きたくないのではないか。

例えるならば死にたい未満、生きたい以下。「もう死んでも良い。そこまで生きたいとも思っていない」そう淡々と語る彼女からは正気を感じた。生物としての根幹を揺るがす考えだが、狂気じみていない語り口に自分は不快感を覚えた。なぜ生きるのか、という問いも贅沢なものなのではないか。人間という生物も元来、生存本能の上で繁殖している。死の恐怖から逃れるために飢えを凌ごうとするし、飢えを凌ぐため農業を始め同時に定住を行う。つまり人類ないし生物は死への関心が強くなければならない。なんとなく死んでも良いという価値観は、人類史から見ても異常であるどころか、対極的な考えであると言える。時代とともに変化する死への価値観。

苦痛の感じ方は人それぞれであり生まれ育った環境や周りの人間の人間性が強く影響している。飢えや病気からかけ離れている我々にとっても死にたくなるような人生の障壁があるのは事実だ。なんとなく死にたいと思う人々へのこの不快感の正体とそういった人物へはどう働きかけるべきなのか。高校生の頃、クラスメイトが死んだ。首吊りであった。

特に親交はない方だったがとても衝撃だった。クラス内での彼女はよく笑顔で悩むよりも悩んでいる人に駆け寄り話しかけるような人物であった。学業も優秀で、バイト先でもその人間性を認められているようだった。少なくともそう聞いていた自分にはそういう人物に見えた。自分にも見えない、何かしらの苦しみがあったのか。それともなかったのか。死を選んだ道理があったのかももはや知ることはできない。薄く紫色に変色した遺体とバイト時代に使われていたのであろう写真が入った黒い額縁。彼女もなんとなく死にたかったのだろうか。自分が死ぬまで理解することはないだろう。彼女も何かしらの被害者なのか。彼女一人では解決できない大きい問題に殺されたのではないか。もし、自分が死ぬ直前の彼女に言えることがあったら何だろうか。死んではいけない。命を大切にしなければならない。そんな手垢のついた常套句は彼女の心に響くのか。そもそも死んではいけないのか。早くか遅いかの違いで生きる道理は必要なのか。正直、理屈を述べることができない。

だが自分の中で生きていてほしいという感情はある。

死のうとする人間を止めようとするとき確固たる意志が自分には必要であると感じた。

人間も環境に依存する。個人を見直すのも賢明だが、環境にアプローチすることが大事であると考える。日本は自殺者が多い国、その所以を探ることが漫然とした希死念慮を持つものと自殺行為者に対しての健全な精神を養うべき道理を見つける鍵となるはず。

UNIVERSE25という実験を知っているだろうか。

数匹のネズミを外敵はおらず食料や水は減らない住処で育てるとどう生存していくのかを検証した実験だ。気温も湿度も保たれ、病気の予防も実験者が被験者(マウス)に行う、生物にとっての危険をすべて排除した環境。いわば楽園(ユートピア)である。マウスたちは何もしなくてよい。探さずとも食料は手に入れられるし、命を狙う他の生物は存在しない。はじめ八匹であったUNIVERSE25内のマウスたちは急速に人口を増やし、7か月後の個体数は合計600匹を超えていた。ところがその勢いは次第にペースを落とし始め、行動に不自然な変化が起こり始める。本来持つべきテリトリーを持たず活力を失い引きこもる個体が増え始めたのである。引きこもり以外のマウスは、オスは本来行うべき子を守ることをせず、メスは子を守ろうとするもその行動に不備が多く見え始めた。妊娠率の低下や流産率の上昇、テリトリーの持たないオスの異常行動が増え、560日が経ったUNIVERSE25内のマウス人口は増加が止まり、出生数が死亡数を上回り、高齢化したマウスのみになった。そしてUNIVERSE25は最後の雄が死亡し、滅亡の一途をたどった。

このUNIVERSE25と現代社会は酷似している。潤沢な食料と水。金を出せばどんな料理も出てくる社会。引きこもりが増え、少子化が進み、高齢者が増え続ける。日本の社会問題と重なる部分が多々ある。何でも手に入る、苦労しなくたって良い、働かなくたって良い、死にも病気にもおびえる必要はない。その状況こそが人類の発展どころか衰退に起因しているのか、なんとなく死にたいという思考もこの状況から生まれているのだろうか。